〜 ストーリー:「家の灯」 〜
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ナギ 22歳 フェムト 17歳 なの 17歳 |
秋分を一ヶ月ほど過ぎた10月、太陽はやや南寄りに沈んでいった。程なくして宵の明星金星が輝き出し、太陽を追いかけるように地平線へと消えていく。すると、しだいにあたりは闇が濃くなっていき、ひとつ、またひとつと星が輝き始める。
…その一部始終を、フェムトは家の前で見ていた。時刻は既に、夜の7時を回っている。 フェムトが家を飛び出して、既に一年が過ぎている。その間、一度も連絡していない。今回の帰省は、単純に、外国に長く滞在する手続きの関係で、どうしても書類が必要だったからで、自ら望んだものでは無い。連絡もせず、いきなり帰って、書類が欲しいと言い、ハイさいで、とサインしたり捺印したりしてくれるものだろうか…。恐ろしく家族に甘いナギのことだから、お前なんか知らない。出て行け、とは言わないだろう。 現在の自分の格好も、フェムトの足を止めさせる原因となっている。家から離れての一年間で、フェムトの風貌は随分と変わった。背も伸びたし、旅の苦労で鍛えられたこともあり、精悍さが備わった青年に成長した。…しかし、それを気にしているわけではない。単に、…汚いのだ。最後に風呂に入ったのは何日前か。いや、何週間…。もしかすると、一ヶ月…。加えてケガだらけで、物騒ないでたちであることは自覚している。羨望の的だった銀の毛並みはぼさぼさのべたべた。「ああ、灰色と銀色って、印象の違いなんだ」と実感出来る。 別に正装して帰りたかったわけでは無いが、1年ぶりの帰省にこれでは、さすがにナギが何と言うだろう…。 意を結してフェムトはドアベルを鳴らした。 …返事が無い。もう一度鳴らす。 しかし、いつまで経っても、返事は無かった。 フェムトは、辺りを見回し、ひと目が無いことを確認すると、闇に紛れ、素早く雨どいを伝い、二階に登った。茂るツタを取り除くと、小さな窓が現れる。今はどういう使い方をしているかは分からないが、勝手知ったる元自分の部屋だ。何度この窓から出入りしたか分からない。自分の身軽さと、ルートの予備知識がなければ、登ってこれないだろうと決め付け、よく開けたまま出かけていた。 当時フェムトは一部で「銀の狼」と呼ばれていた。それを聞きつけたナギが、「銀の狼」より、「銀の猿」の方があってるのにな。なあ?とフェムトに同意を求め、フェムトを絶句させたことがあった。恐らく、ナギはフェムトが雨どいやツタを伝って夜中に2階から出入りしていることを知っていたのだろう。 |
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カラリ。 小さな窓は、当たり前のように主人を迎え入れた。 フェムトは部屋を出て、階段を降り、灯りのついていたリビングを目指した。やはり家人の気配は全く無い。 …何を見ても懐かしい。やはり自分の家だ。 リビングの扉を、恐る恐る開ける。…しかし、そこには誰もいなかった。ダイニングテーブルの上に、一枚のメモが置いてあった。見慣れた、癖のあるナギの字だった。 |
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おかえり。 オレは、出版社の用事で大阪に行くけど、 おいしいよ。 書類は、お前の机の引き出しに入れておきました。 ナギ |
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…不覚にも懐かしさに視界がにじむ。 それでも何度も何度も、文字をたどる…。 この書置きは、時々週末に帰ってくるピコかキロが、自分より先に帰ってきたことを考えて、ナギが残したのだろう。 今日はまだ木曜日。どうやら、なのもナギもこの家にはいないらしい。 よかった。誰にも会うことは無い。 保護者の同意が必要なものもあるけれど、ナギの字を真似ることなど簡単だ。 …会いたくないわけでは無いのだ。 引き止められることが怖いし、…見放されることは、もっと怖い。 一年前、家を飛び出した時のように。 傷つけたくない。 どうせ、今回のうさぎねこ特有の手続き以外に、ビザだ何だで、また直に一度戻って来なくてはならない。せめて今回は。 フェムトは再びメモに視線を落とし、随分長い間立ち尽くしていた。 |
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突如、車が家の前に止まる音がした。驚いて顔を上げる。 玄関先から知った声が聞こえた。 フェムトは慌ててリビングの電気を消した。 「なのちゃん。ほんとにひとりで大丈夫?」 遠ざかる車の音。 フェムトは軽いパニックに陥った。なのに会うのは、別に気まずくない。双子だからか、なのの持つ独特のオーラのせいか、フェムトにとって、なのは空気のような存在だ。自分を責めることも、引き止めることもしないだろう。 ただ、心臓の弱いなのが、誰もいないはずの家に誰かがいたらどれだけ驚くか…。 とりあえず二階の部屋に行こうか? 鍵を開ける音。 よく考えれば、リビングの電気を消したことは逆効果だ。点いていた方が、むしろなのは誰か人がいるかもしれないという予測を立てられただろう。 どうしよう…。 「…誰かいるの?」 なのの声がした。何だ?何で人の気配に気づいたんだ?答えに惑う間もなく、リビングの扉のノブが回る。 バタン 扉が開き、なのが灯りが点けた。同じくスイッチに手を伸ばそうとしていたフェムトとなのは、かなりの至近距離で向かい合う格好となった。 「あら、フェムト、帰ってたの?」 戸惑うフェムトに、なのは表情ひとつ変えず、平然としている。 …そうだ。こういう奴だっけ。 「…何で、誰かいるって気がついたんだよ」 「なんだその普段通りの態度は…。1年ぶりだぞ」 |
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「よくそんなに汚れるものねー」
なのはフェムトを風呂場に押し込むと、文句を言いながらバスタブに湯を張り、立ち去ろうとした。その後ろ姿に、フェムトが気まずそうに声をかける。 「…えーと、なの。ナギに連絡しないでくれるか?」 なのはくるりと振り向いて、きっぱり言った。 「いやよ」 安堵でフェムトの口元が緩む。 「…フェム。ナギに会いたくないの?」 なのは、風呂場の棚からバスタオルを出しながら、極普通の調子で問いかけた。 「…そうじゃない。ただ…」 暫しの沈黙の後、フェムトが重い口を開いた。 「…なのはナギを面倒だと思ったことはないか?」 なのの尤もな返しに、フェムトが黙りこむ。…正直なところ、自分でも分からないことを聞かれても困るのだ。しばし二人とも押し黙る。重い空気と湿気の両方に、先に根を上げたのはフェムトだった。 「…なの、俺、風呂入ろうと思ってんだけど」 「入れば?」 「お前、見てるの?」 「だめ?今フェムトがシャワーを浴びたら水がどんな色になるか、実験みたいで興味深いわ」 「バカ。出ろ」 「ケチ」 なのは洗面台に新しいバスタオルを置き、風呂場の扉を開けた。そして。 「…フェム」 不意打ちに、驚いてなのの顔を見る。なのは笑っていたが、少しだけ、泣きだしそうな顔にも見え、言葉につまる。 「…うん。なのも…」 どうにか搾り出した声を合図に、扉が静かに閉まった。 これがどんなに贅沢なことか、この一年間で、フェムトは思い知った。 うさぎねこが世界的に人権を認められて、まだ日は浅い。途上国ではうさぎねこの取り扱いが悪い国もあるし、もっと酷い場合は、売買の対象になっている地域もある。臓器などという物騒な話題も耳にするが、妙な趣味の好事家が多いことも、身をもって知った。実は、美しい銀の毛並みが汚れるに任せていたのも、意識的にやっていたこともある。例え、なのが健康でも、海外に行くと言えば自分のことは棚に上げて反対するだろう。 そういう状況になると、あれほど仲たがいをしていた親父のサバイバル教育にも、感謝しないわけにはいかない。どこででもやっていける知識と能力を、幼い頃から比喩ではなく「叩き」込まれた。今思えば、一般的な護身術とういにはあまりにも本格的だった。身体を動かすことや、生きるための知識を得ることには貪欲だったので、その点では感謝しているし、自分は出来のいい生徒だったと思う。いい息子だとも、いい父親だとも思ってはいないが。 …もしかする世界中を飛び回っていた親父と、自分の目的が同じものかもしれないという思いもよぎる。フェムトは、旅を始めてすぐその可能性を考えた。 身体を流すと、恐ろしいほど湯が汚れる。確かに見ものではあった。何もせずにバスタブに入れば、湯はきっと廃墟の庭で放置された池のような色になっただろう。三度石鹸で身体を洗い、流しても湯が透明であることを確認してから、漸く風呂に浸かった。 温かい湯と静寂を満喫しながら、先ほどのやりとりを反芻する。 …なの。ほんとのことを言うよ。 夜の砂漠をあてどなく歩いている時も、見知らぬ都会で、冷たい雨に耐えている時も、嵐で揺れる船の上で震えている時も、いつだって…。 オレを支えたのは、重くて面倒な、ナギの愛情だったよ…。 でも、まだ俺にはやり続けなくちゃならないことがある。 ナギといると、弱くなる。 |
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風呂から上がると、良い香りが漂っていた。リビングに向かう。 「あらなんだ。もとのフェムトね」 風呂上りのフェムトを、なのが何故かがっかりしたように迎える。 「…お湯、そんなに汚れてないと思うけど…。落とすか?」 食卓には、急いで作ったのだろう、オニオンスープと、焼いたチーズ、アボカドのサラダ、そして、トーストされたベーグルがあった。 バターの香ばしい匂いと、ナギ手製のベーグル。いかにも急ごしらえで、豪勢な食事とは言えないが、フェムトにとって、懐かしい「家の食卓」だ。さくりと齧ると、ベーグルに入っていた胡桃の風味が口に広がる。泣きたくなる程旨い。幼い頃、フェムトが一番好きだったのは、ケーキなどの菓子類では無く、ナギが作る胡桃やバジルが入ったベーグルだった。 考えてみれば、昨日の夜から何も食べていない。次々にフェムトが皿の上のものを平らげていくのを、なのは楽しそうに眺めていた。 「…もっと焼くね」 なのが台所に立ち、ベーグルを出し、オーブンに入れる音が聞こえる。ほどなくして、フェムトの前に、今度は生ハムとクレソンの乗ったベーグルが置かれた。遠慮なくかぶりつきながら何気なく見渡すと、テーブルの端のナギの書き置きが目に入った。 「…ピコやキロの分、無くならないか?」 「え?何?」 フェムトは書置きを指差す。 「ピコかキロ、明後日、土曜に帰ってくるんだろ?」 なのが可愛らしい顔をしかめる。 「帰って来ないわよ?ふたりとも。キロは試験だし、ピコは勉強とクラブが忙しくて、夏休みとか以外はめったに帰って来ないのよ」 「え?じゃ、この書き置き…」 なのがカレイドスコープのような赤い瞳で、フェムト顔を覗き込む。 「…何だよ?」 「…バカね。フェムト…。この書き置きが誰にあてたものなのか、ほんとに分からないの?」 思いのほか低い姉の声に驚いて、ベーグルを嚥下しながら、フェムトが顔を上げる。 |
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「…」
「わたし、お風呂入ってくるね。フェムト、疲れてるんでしょ。片付けなくていいから、食べたら休むといいわ」 なのはそう言い残し、席を立ってリビングを後にした。 フェムトは一瞬の混乱の後、なのの言葉を全て理解した。 |
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おかえり。 オレは、出版社の用事で大阪に行くけど、 おいしいよ。 書類は、お前の机の引き出しに入れておきました。 ナギ |
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フェムトは、緩慢な動きで立ち上がると、メモを手にのろのろと階段を登り、自分の部屋に行った。 電気を点けて、改めて部屋を見回す。本棚にも、机の上にも、埃は無い。掃除が行き届いていることが分かる。機械的な動きで、机の一番上の引き出しを開ける。 …そこには、予想通りのものが、入っていた。 明日フェムトが用意するつもりだった、海外滞在を延長するための書類の一式…。 ナギの署名と、捺印がしてある。日付は、半年も前のものだった。 …自分がここを出て1年と少し。おそらくナギは、フェムトが海外にいることを、どうにかして知った。そして、いつかは手続きに帰ってくると予想したのだ。今日かもしれないし、1年後かもしれない。でも、弟は必ず書類を取りに帰って来ると…。 ふたたび、手の中のメモを見る。 この家が空になるタイミングで、フェムトが帰ってきた時のことを思い、おそらく、同様のメモは、何度も、何度も書かれたのだ…。 帰ってきて、メモを読まれた形跡が無いことを知り、ナギはどう思ったのだろう。 そして、また出かける時には、メモを残して…。 誰もいない家に帰って来た弟を迎える言葉を残そうと。 ナギの字がふいに揺らぎ、フェムトは慌てて顔を上げた。 目を瞠って涙が零れ落ちないようにする。
動いていないと、堪えられなくなりそうで、窓の方へ向かい、気づく。 …意図的に、開けておかれたのだ。 勢いをつけ、わざと大きな音をたてて窓を開ける。秋の冷たい風が吹き込んできて、頬を撫でる。少し乗り出すように顔を出すと、真下に位置するリビングからの明かりが漏れているのが見えた。 そして、また、気づく。 |
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もし、 しかも、家中が真っ暗だったら可哀想だなんて、ナギの考えそうなことだ。 そうして、リビングの明かりは灯された…。 それが、今日初めてのことではないのは、なのの態度からも分かる。なのが帰ってきた時、フェムトは身動きひとつしていない。 なのは、物音ではなく、明かりが消えていたから、誰かがいる、と察したのだ。 堪えきれず溢れた涙が落ちた。 がんばろうと思う。 でも、…がんばろうと思う。 明日、ナギが用意してくれた書類を持って、また、自分は旅に出る。 でも必ず帰ってくる。 東の空低く、細い月が冴え冴えと輝いていた。確か4日後が新月。その月が昇ってきているということは、今すでにかなり夜が更けていることが分かる。 太陽の光が、地球に反射して少しだけ月に届いているんだよ。
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どこにいても、駆け引きの無いナギの愛情は自分を照らす。自分が知らない間もずっと、そっと灯し続けられた、家の明かりのように…。 ナギの側にいると、弱くなる。 でも…。 空を見上げるフェムトの瞳に、次第に力が戻ってくる。 |
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翌朝、なのが起きた時、もうフェムトは家にいなかった。 リビングのテーブルの上に、書き置きがしてあった。 行ってきます。 ただ、それだけ。 思わず笑みがこぼれる。 たぶんフェムトは、もっと長い、ちゃんとした手紙を残そうとしたのだろう。 でも結局、これだけになったのだろう。 なのはテーブルにメモをそっと戻した。 やれやれ、と思う。 感謝と、愛情と、必ず帰ってくるという、誓いを。 ふたりとも不器用すぎる。 「ナギ、面倒じゃない?」 フェムトの言葉を思い出して、微笑む。 うちの家族はみんな面倒よ。 いってらっしゃい。 行って、私が一生見ることの無い世界を見てきて。 なのは、今はもう遠いところにいる自分の半身に、そっと呟いた。 窓を開けると、早朝の風が心地よい。 既に陽も昇り、月はもう輝いてはいなかったが、 それは白く、美しかった。 |
2010/5/20脱稿 |
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